人はなぜ木に登りたがるのだろう

最後に木登りをしたのはいつですか?

子供時代、もしくは一度もしたことがないという方も多いかもしれません。

木登りの特別な価値

子供の頃、「木登り」って異常なまでにワクワクしませんでしたか。

至ってシンプルなことなのに、無性に特別感のある行いだったと記憶しています。

先日、天気の良い日に5年ぶりの木登りをしましたが、その何とも言葉にしがたい、どんな体験も代替し得ない、特別な魅力を再確認しました。

いつもの調子で「みなさんもたまには近所の木に登ってみてくださいね。」と締めたいところですが、僕も長いこと日本で都市圏に住んでいたのでわかります。

ベッドタウン以上に発展した街ともなると、木登りのハードルは高すぎるということを。

ましてや、地上に人の目が少しでもあるもんなら、木の上に到達したあなたの心中を占めるものが100%の爽快感ではないということを。

木登りが難しいのは重々承知の上で、今回は「なぜ木登りが普遍的に少年少女をそこまで魅了するのか」を木の上で考えました。



特別感じゃなくて特別なんだ

ここまで述べてきた通り、木登り自体はそう難しくないのに、実際に木登りするのってめちゃめちゃ難しいですよね。

子供だったら人の目なんて気にせずに登れるか、と言ったらそうでもないでしょう。

小さい時は「危ない」とお父さんお母さんに止められ、少し大きくなると分別が付いてきて、やんちゃ少年でもない限り、登るのをやめてしまいます。

多くの木は人の身長以上の高さから枝が分かれていて、登ることが難しいというまた別の問題もあります。

登りたいか登りたくないかはさて置き、自由な木登りチャンスは一定レベル以上の田舎じゃないと圧倒的に不足しています。

5分で味わう成功体験

樹種や形にもよりますが、ある程度の高さまで木に登るには、それなりに腕力がいるし、神経も使う。

つまり、木の上の景色と爽快感を得るためには、そこに辿り着くまでの自分の頑張りが必要。

枝分かれが多くて安定した木だと、安全圏で建物の3〜4階の高さまでは行けます。

階段もエレベーターも使ってないのに、そこそこの見晴らし。

実際に登って感じましたが、人工物以外でそんな高さまで上がる機会などそうそうないので、周りを見渡しながら、表現しがたい不思議な感覚を得ることになります。

「自分で到達した感」がものすごくあるんです。

距離や高さというのは面白いもので、わかりやすく達成感に直結します。

フルマラソン、自転車旅、ツーリング、ロードトリップ、ヒッチハイク、登山。

自分の力で遠い所や高い所まで来た時に感じるロマンや高揚感までをも、木登りは反則的に短い時間でもたらすのです。



「自然と一体化」とはまさにこのこと

「自然と一体化する」という表現がありますが、確かにそういった感覚ってあると思います。

今回木に久しぶりに登ってみると、痛烈にその感覚を味わいました。

文字通り、木の視点で辺りの風景を見ることになるため、自分自身が木の一部になったかのような感覚に陥ります。

文章にすると大袈裟に聞こえてしまいそうですが、しばらくのあいだ木の上にいると「自分が夜室内で寝てる間も、気温−20℃だろうと木はここにいるんだな」とか、「この大きさだったら、控えめに言って40年はここにいるのか」とか、壮大な事がリアリティを伴って感じられます。

自然に溶け込み、そこへ思いを馳せると、心は浄化されていく。

普段、自分の頭の中で練り上げられる悩みのちっぽけさを思い知り、自然の偉大さに後押しされるかのように元気が湧いてきました。

スカイツリーはお金を払えば誰でも簡単に上れますが、そうはいかない「木登り」の計り知れない価値を、少しは伝えられたでしょうか。

上川町にみんなで作るツリーハウスを!

Slowlandでは引き続き、北海道上川町のツリーハウスプロジェクトを応援しています。

【プロジェクト紹介記事】

【プロジェクトページ(クラウドファンディング)】

https://readyfor.jp/projects/kamikawatreehouse 

子供の頃のワクワクは、大人になってからも大切にすれば良い。

何をするにも遅すぎるなんてことはありません。