「グループ分け」は理解の補助に過ぎない

生きていて常に感じてきた「ある感覚」のこと。

上手く言葉にできるようになってきたかもしれない。

その感覚とは、世の中にある全ての「グループ分け」は理解の補助としての価値しか最終的には持たないということ。

言い換えれば、僕達は一生懸命この世界に言葉を与え、フレームを与えて、世界を理解しようとするけど、そいつらは「整理」の役割をするだけで、本質的には全く重要じゃない。

学問のグループ分け

僕は高校時代、理系と文系のどっちに行けば良いかわからなかった。

結局は理系に進んで難しい数学や物理もやったが、マニアックなレベルまでいった途端やる気を失った。

大学受験は学際的な学部ばかりを受験し、結局リベラルアーツ大学を選んだ。偏った勉強に魅力を感じなかった。



学校には科目やカリキュラムというものが存在する。

国語、算数、理科、社会…。

政治、経済、倫理、地理、歴史、現代社会…。

文学部、商学部、農学部、工学部、法学部…。

それは至極真っ当なことで、垣根がなければ何をどうやって教えるんだとは思う。

しかし、どの入り口から勉強を始めてもある程度学ぶと垣根は要らなくなる。

むしろ、理解を深める為には垣根なんて早く壊して繋げていかないとダメだ。

対人のグループ分け

対話したり、時間をともに過ごす以外の方法で他人を理解することはできない。

ましてや判断・評価なんてどうしてできるだろう。

フィンランド人、アメリカ人、日本人、ブラジル人…。

黒人、白人、アジア人、ラテン人…。

性別、年齢、職業…といった外見やプロフィールが伝える情報。

どんなグループ分けも確かに、最初の入り口としては役割を果たす。

その人の持つ世界観の傾向の推測ぐらいはできるから。

でも、そんな情報でずっと止まってる浅い人付き合いなんかごめんだ。

何人だろうと何歳だろうと何をしていようと好きな人は好きだ。



出発にグループ分けが必要なのは確か

グループ分けに本質的な意味はないが、それがないと何も始まらないのは確かだ。

学問体系がなければ学校システムなんて作れないし、ある程度表面的な情報から会話を始めなければ人間関係なんて作れない。

それがない世界はただのカオスであり、グループ分けこそ人類が認知能力を使って発達させてきた尊いものだ。

Portland, Oregon

でも、世の中のグループ分けが不完全であることは心に留めておきたい。

それはしてもしても、完璧に仕分け切ることなんて最後まで無理で、必ず中間に存在するものがいつまでも残るんだ。

環境問題は環境だけの問題じゃないし、人種問題は人種だけの問題ではない。

大好きなHazy IPAを飲んで、今日もおやすみなさい。