最近急に思ったことではないですが、コミュニケーションについて僕が思ってきたことを、ソーシャルメディアの話も交えて、一度ここにまとめておきます。
会話の「?」には2種類ある
毎日毎日、出身国の違う友達 (上手い言い方がわからない笑) と過ごし話していると、もちろん単純に、相手の国では当たり前の物事を僕が知らなくて、「ん?」ってなることもあるけど(逆も然り)、もっと深い文化的な部分から生まれる考え方の違いに出くわすことがある。
前者は例えるなら、「ロシアの人口分布が圧倒的に西に偏っている」、「ネパールの近年の所得水準」、「フィンランドの電車は南北に走ってて、東西に移動しにくい」…などといったコモンセンス的な知識。
一方後者は、いわゆる “北欧幸福論” の裏に社会福祉や教育の基本理念が隠れていることだったり、ある人がジェンダーの議論で一つの立場を取ることがその人の宗教観からきていることだったり、もっと複雑な”思考”に関する面のあらゆる違い。
見た目や文化がそう違くなくたって
僕は今、非常に多様性のあるコミュニティの中で毎日を過ごしているから、こうした考えを巡らす機会が明らかに多いけど、本来なら、実は同質的なコミュニティにいようと、相手のことを長く知っていようとも、こうしたことは常に起きている。
“客観” はものすごく大事でも、人間なんてみんな経験に基づいたり、共に過ごしてきた人達(家族、友達、会社、社会)の思考様式の影響を受けたりして、”主観” を持っている。
だからこそ「相手を理解する」ことは、人生においてもっとも難しいタスクの一つだし、完璧は無理でも、対話の中から相手を知ろうとすることが楽しくて、人は誰かと一緒に居たいと思うんだ。

Best, not perfect
人と関わる上で大切にしたいのは、思いやり。
そして、その言葉の本質は、相手の気持ちを、自分に可能な範囲で十分に想像してあげることじゃないかな。
相手の状況や考えを、その人と同じ精度で全て知ることなんて、最初から無理だということをまずはきちんと理解すること。
それを理解した上で、最大限自分にできる接し方をすることや、もう少し理解してみようとすること。
それが人にできる「相手の気持ちを慮る」ということだと思う。
ソーシャルメディアと思いやり
「ソーシャルメディアで人と簡単に繋がれる時代になった」っていうよく聞くフレーズ。
「新しい人と繋がる」という意味では確かにそうだけど、「繋がりを保つ」場合どうだろう。
昔の友達とか遠くにいる人と簡単に連絡は取れても、信頼関係を続けることは果たして簡単になったのかな。
簡単に連絡できても、お互い時間にも、連絡が取れる人数にも限りがある。時間に限りがあるから、お互いに「この人との関係を大事にしたい」と思って時間を取らないと結局無理なんだ。
特にメッセ(LINEなど)を介したコミュニケーションで気をつけないといけないと強く思うことは、最初からそんなもの補助的だと知ること。電話にも勝てなければ、対面のコミュニケーションに勝てる訳なんてない。
一緒に飲みながらするような熱い話とか、勉強やビジネスの少し混みいった話とか、気持ちを込めた大事な話とか、そんなもんLINEでできっこないよ。
だから、LINEのコミュニケーションで、なんだか理解し合えなかったり、誤解が生まれたりしても、ある程度しょうがないと思った方が良い。
躍起になって長文を送ってもどこか限界があるのかも。
コミュニケーションがどれだけデジタル化したって、良い人間関係に必要なのは相手の状況や気持ちを考える想像力。
文章を書いていたら途中から、ふと彼のことを思い出した。
