手紙が伝える心と温度

小学生の頃までは書いていました、年賀状。

手紙に乗っかっているもの

昨年の夏にフィンランドに移ったわけですが、2人の友人が前もって住所を訊いてくれ、ありがたいことに、クリスマスカードが1通(ロサンゼルスから)、年賀状が1通(東京から)届きました。(ありがとう!)

僕と同世代の方で、年賀状を書く方はもうかなり少ないのではないでしょうか。

僕も確か小学生までは、友達や学校の先生、野球のコーチなどに書いていた記憶があります。

でもいつの間にか、めんどくさくなってしまって書くのをやめ、今では少数の親しい人達にメッセージを送るくらい。近年は基本的に、嵐の5人(日本郵政)からしか年賀状が届かない状態が何年か続いていました。

今回久しぶりにこうして手紙をもらったら、小学生の頃に年賀状を友達からたくさんもらって、一枚一枚ゆっくり眺めていた時の気持ちを思い出しました。

考えてみると、手紙は手書きの文字やそのデザインに無限に表現の幅があります。

同じ人が書いても文字は書いた時の気持ちまでどことなく伝えるし、何より、“その人らしさ”が乗っかって、目には見えない「温度」まで伝えてくれます。

LINEなどのメッセージでも、言い回し、スタンプ、絵文字などで表現に幅は持たせられますが、どこまで頑張っても、やはり手紙の“パーソナルな感じ”にはどうしても勝てません。

手紙自体が、送ってくれた人の手を離れてから何人かの郵便屋さんの助けを得て、自分の元まで届いたという感覚も、やはりデータで送るメッセージには表現できない「熱」だと思います。

「書く」という尊い行い

人といつでもどこでも連絡が取れる今の時代、「手書き」の必要性は薄れて、僕たちは「書く」という行為から遠ざかった。

こうなってくると「カードや便箋を選び、ペンを握り、時間をかけて言葉を選ぶ」という行為自体が非常に尊いもので、受け取った人はそこまで含めて書き手の気持ちを受け取っている。

大切な人に大事な気持ちを伝える時、あえて「手紙」を出すのは大いにありだな、と今回改めて感じた。



手紙いいなあ、と思っていると、僕のソウルメイトと言えるある男を思い出した。

彼は一時期、人と一緒に過ごす度に「写ルンです(決まった枚数しか取れない緑色のカメラ。写真屋さんで現像する。)」で写真を撮り、それに手紙を添えて封筒に入れ、後日送る、というのをやっていた。

今考えると、最高にクールだ。もはや聖なる行い。

僕も確か2回もらったのだが、そのおかげで遊んだ時のことや、当時考えていたこと、彼と語っていたことはなんとなく心の片隅にしまってある。

そして、それが今でも励みになっている。

これは僕が知る限り、スマホでは再現できない離れ業で、こういう所で “アナログ” が圧倒的な価値を生み出すんだろう。