人が脳をインターネットに接続する時間がどんどん増えている。
世の中の仕事の多くが着々とデジタル化し、インターネットを介したコミュニケーション、エンターテインメントもますます増え、世の中全体が情報や意見の交換をありとあらゆる領域で進めている。
僕自身も論文執筆や、記事のライティング、そのほか仕事や自由時間でも毎日ありとあらゆる調べごとをしている。「ググれ」なかった昔の暮らしは、子供だったこともあるが、もうピンとこない。
本当に必要な情報なんて限られてる
このslowlandもその端くれだが、世界全体の情報供給量は毎日増え続けている。「誰でも発信できる時代」は情報が民主化するのは良い反面、どうでもいい情報も脳にたくさん入ってくる。
残念ながらこのslowlandも含めて、インターネット上にある情報の99%なんて本質的にどうでもいいと僕は本気で思っている。誰かの発信は、誰かにとっては特別にはなり得ても、普遍的に人が生きる為に必要ではない。おしゃべりの場が増えただけだ。
意識せずとも、僕自身がここで発する言葉の全てが「誰かがどっかで言ったこと」になってしまうのなんて百も承知している。自分の思考、記録、幸いに読んでくれた方とのコミュニケーションの場になること以上の意味はない。
ソーシャルメディアは便利だが、基本的には考えの近いもの同士がフォローしあっている構造を忘れてはダメだ。人道から外れた発信でない限り、GoodボタンがBadボタンの10〜100倍押され、シェアされ、同調するコメントがつくのは当たり前のことだ。どのメディアが、また誰が発信してるのかまでセットで引き受けないと、バイアスからは逃れられない。
個人レベルでも、インターネットのアルゴリズムに身を委ねると刹那的な快は得られても、偏った情報が脳にインストールされて判断力は低下する。自分の頭を使わないで特定の情報源を盲信するのは健康的ではない。
事実に基づいて自分で考える
学問の世界で、引用に適した文献がオフィシャルな統計、学術書や論文に限られるのと全く同じ理由で、日常生活でも根本の思考体系に影響を許していいのは、出所と根拠を自分が信頼する情報だけに僕はしたいと思う。
では、既知の情報の踏襲以外、つまり学問世界で言うところの「実験」や「研究」に当たるのは何かというと、自らの体験だろう。それも盲信するのではなく、客観的な視点と検証マインドを忘れることなく。
高校の担任が卒業式に放った言葉は妙に腑に落ち、僕の頭の片隅に残った。その先生のことが特に好きだった訳でもないのにだ。「人が学ぶのは常に外界から。」9年経っても忘れないのは、僕もそう思って生きてきたからだ。それは、人、街、自然、本、映画、なんでも。脳の外にある全てだ。
それと、情報はインプットとアウトプットだけではないと思う。一番大事なのは「吟味」とか「咀嚼」の時間であり、情報を自分で「加工」する時間であり、公園やバルコニーでボケーッとして「内省」する時間ではないだろうか。
みんなが正しいこと、同じことだけ言う世の中になれ、ということではない。むしろその逆だ。オリジナリティは思考の醸成から生まれると思う。発信は人の数だけあるべきで、それが言論の自由だ。しかし、これだけカオスに情報が散らばった世界においては、受信者としての心構えを身につけないと豊かな人生からは遠ざかる。
と、日々インターネットで情報を漁る中で、自分が忘れたくないことをここに記しました。クレイジーな情報社会ですが、ここまで読んでくださったあなたに、今日も良いことがありますように。